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秋野 不矩 は私の家から、北へ30分程の天竜市二俣に明治41年(1908)に生まれた。
昨年、天竜市は浜松市ほか11市町村と合併し、浜松市は日本第二の広大な市となった。
北は赤石岳に至る広大な南アルプスまでを市領域としたからである。
ついでに書くと、日本第一の広大な都市は、乗鞍岳に至る北アルプスを市域とした高山市である。
不矩 ( 本名 ふく )は、平凡な一女流画家に過ぎず、
1949年に京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)
助教授として、後進を指導育成すると共に、写実的な女性像を描いていたに過ぎなかった。
1962年に不矩はインドの現タゴール国際芸術大学の客員教授として招かれたことで、この女流画家の運命は変わった。
不矩のインド行きは、同僚の京都美大の美術史教授 佐和隆研
が仏教美術研究のためインドに赴いており、
タゴール国際大学に日本画家を送ってほしい旨依頼され、「誰か行ってくれる人はないだろうか」と、日本画教室で話を
した時、不矩が即座にインド行きを希望して決定した。
インドでの客員教授の期間は一年間であったが、
以後不矩は毎年のように、インドを訪ねインドの風物を描いた。
私は不矩の描く、朽ち果てた廃寺や、インドの神々の像、果てしなく続く黄土色の大地、ガンジスを泳ぐ水牛の群れ、
乾いた風の中での庶民の生活などに心を打たれ、最も好きな画家の一人となった。
そして、この美術館自体が、美術品のようなインドそのものの雰囲気を持つ名建築で、好きな建物となっている。
秋野不矩は、91年11月3日、文化功労者となり、98年4月24日秋野不矩美術館が竣工。
翌99年11月3日 文化勲章を授与された。 2001年(平成13年)10月11日、93歳で京都府美山町のアトリエにて
心不全にて死去した。
なかよしの十一号(1989年)に、絵と美術館のことを書いているが、この美術館は8番目に私の好きな美術館となっている。
孫たちのために、その時書いた ベストセブンを再掲すると、
倉敷の大原美術館・京橋のブリッジストンギャラリー・京都祇園の
何必館・九段に移転した山種美術館・熱海のMOA美術館・箱根の成川美術館・島根県安来市の足立美術館。これがベスト
セブンで、最近箱根 仙石原に出来たポーラ美術館と、静岡の芹沢圭介美術館を加えて僕の見た中での、ベストテンとしたい。
絵を見る眼が、年毎に凄まじい勢いで変わって行くのに自分でも驚くと書いているが、風景の写真をノギスで測って、
それを何倍かに、伸ばしてぼかして書いているような人の絵を何で好きだったのだろうかと不思議に思うことがある。
絵画の真の価値とは関係無いが、収集家の立場から見ると、希少価値は重要である。
女性の社会的価値の高まりから見て、女流作家の作品は考慮する必要がある。 なかよし十一号では、その点に触れ、
ローランサンを論じている。 この不矩もいずれ日本を代表する女性画家の第一人者となるだろうから、この人の出身地に
住んでいるので、インドのデッサンの一枚でもほしいと思っている。もう高くてとても買えないのが、残念である。
若手の福井良之助
の絵を集めたことがあったが、何でそんな人の絵を集めるのですかと画商仲間から、馬鹿にされた。
『いや死んで百年しないと、その画家の値打ちは分からないのだよ』と言っていたものだったが。
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