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病院実習をしていた頃のとりとめもない話である。
それではミセス・フィルダーを紹介するからと、院長が立上がりかけた所に電話がかかってきた。
入院患者の容態が急変したらしい。行かなければならない。ミセスには良く話してあるから一人で行くように、
と言い残して院長はあたふたと部屋を出て行ってしまった。出掛けに振り返ると達者な日本語で一言。
「彼女はパーフェクショニストだからネ。」
そう言って大きな目をぎゅっとつむって見せる。後は言わないがへまをしないように気をつけるんだよという
意味なのだろう。これは困ったことになったと思う。
昨日から夏休みが始まって、僕はこの病院の臨床検査質で実習かたがた働くことになった。
小高い丘の中腹に新築されたミッションの経営する病院で、緑の木立の中に白亜の建物が目にしみるように輝き、
中に入るとカラーコンディショニングが隅々まで行き届いて、大学病院や地方の日赤しか知らない僕には
それはきれいな病院だった。
臨床検査の主任が女性だったのも意外だったがその人が院長の言う様に「パーフェクショニスト」と来ては、
何も知らない僕はどんなへまをしでかすことやら、その人が鷲鼻の大女で顎をしゃくって仕事を言いつけるような
人だったらどうしようと、少々気を滅入らせながらフィルダー女史のいる涼しい地下室へと降りて行った。
試験室の中からは電気冷蔵庫からのかすかな響がもれてくる。恐る恐るのぞくと中からにこにこと現れたのは
予想とは全く反対であった。アメリカ人にしては小柄な、灰色がかった青い瞳をし亜麻色の髪の毛をした美人で、
実に可愛らしい声をしている。初対面の挨拶を済ましこれを読んで来ましたと院長から読むように言われていた
TODDのCLINICAL LABOを出すとさも満足げにうなづいて、あなたの英語は私の日本語より上手い等とお世辞を
振りまくものだからすっかり嬉しくなってしまった。
その日から早速フィルダーさんに教えてもらい乍ら種々雑多な臨床検査をすることになった。
何しろ検査といっても血球計算位しか知らない上に、フィルダーさんは日本に来てやっと半年ほどで日本語が
殆ど出来ない。「私の日本語」なるものが実はテニヲハ抜きのすこぶるユーモラスなものである上に、こっちの英語が
中学以来十年はやっている筈なのにそれと似たり寄ったりと来ているから、始めから失敗のし通しであった。
早速彼女は検尿をしたことがあるかと聞く。残念乍ら生まれてからこのかた尿を顕微鏡で見た事が無い。
申し訳ありませんという顔をする。それではこれを見て下さいとオブジェクトグラスを渡されたが、恥ずかしいことに
どれが赤血球や白血球かもどれが大腸菌かも判らない。その上フィルダーさんの喋る巻舌の早口が
さっぱり聞き取れない。どうにかSEMENという単語だけが耳に入ったが、はてSEMENの検査等もするのかと
少々奇妙に重い乍らもともかく双眼をのぞくと、成程無数にうごめいているものが見える。
そのつもりでやりとりをしていると、途中で彼女は混線している事に気が付いたらしく、けげんな顔をして
今度は一々念を押し乍らゆっくりと喋ってくれた。尿が廻ってきたら、なるべく早く、遅くともその日の内には
必ず検査を済まさないとこのSPECIMENのように大腸菌や雑菌が繁殖し、且つ糖を分解してしまうから気をつけねば
いけない。とそういう意味だったらしい。顕微鏡をのぞきながら一人で赤面したものであった。
それでも四、五日すると一通りの検査は何とか出来る様になった。フィルダーさんはグレイッシュブルーの瞳をくるくると
動かし乍ら図を書いて白血球の分類を説明してくれる。仕事をしていても、金糸で縫い取りしたお手製らしい布靴を履き、
かすかな衣ずれの音と共に試験室の中を忙しそうに歩き廻り乍ら合間を見てはやって来る。メランジュールを振る時は
一分以上振らねばならない。それも同じ方向ばかりに振ってはいけない。計算盤に入れる時はガーゼでぬぐったりせずに
確実に二、三滴捨ててからにしなければいけない。小区劃の血球数に10以上の差があるときはやり直せとか、
如何にもパーフェクショニストらしい注意を与えるのである。
雨が降ったりして、外来の少ない時等、入院患者の検査が一しきり済んで昼からは暇になる事がある。
そんな時には自分で三時のコーヒーを沸かし怪しげなコップ(時には尿コップに使うこともあるアルミのコップを消毒して)に
注ぎ乍らいろんな話をしてくれたものであった。医者は卒業しても中々一人前になれないから辛いだろう。
兄はサイキュアリスト(精神科医)だが卒業して十年にもなるのにまだ一人前になれないとか、アメリカのインターンは
衣食住つきの上100ドル位くれるのだが、実際はとても忙しくて外へ遊びに出る暇がないから25ドルもあれば
やって行けるとか、故郷の町や故国の学生時代のいろんな話を楽しげにするのであった。
四時過ぎになるときまってハズが車を飛ばして迎えにやって来る。フルブライトの交換教授で政治学の講義に京都へ
来ているとかいう人だったが、見上げる様な大男で病院の終わる時間になると試験室に入って来て、顕微鏡を逆に回して
素頓狂な声を上げて奥さんにたしなめられたり、洗いかけの試験管を洗う手伝いをさせられたりする。
その頃は夏で講義が休みだったので一人で退屈するのか、時々一時頃から現れて待合室でタイムか何かを読み乍ら
奥さんの仕事が終わるのを根気よく待っている事があって、成程アメリカの男は大変だなと思わせた事であった。
日本では妻が他人に夫を称して主人と呼ぶ事はごく当たり前の事だが、これがアメリカの女であるフィルダーさんには
奇妙で仕方がないらしい。主人といえばMASTERに当たるのだろうが、それに対するものはSERVANTである。
表面上はともかく実際はその逆であるから、日本人の女が夫を主人と呼ぶのは彼女等にはおかしくてならないらしい。
同僚の女医さんたちと、やれおまえの所のゴシュジンがどうしたとか、うちのゴシュジンがどうしたとか盛んにゴシュジンを
使っているのは面白かった。
時々並んで試験管を振り乍ら昨日はこんな事があった等と話し出す事がある。その頃やっとどうにか日本語で用を
足せるように様になった彼女の事である。時々傑作な話をする事があった。同僚の医師達が皆日本人のメイドを
使っているのに、フィルダーさんは子供もまだ無く夫婦水入らずで暮らしていたので、買物等も皆ミセスが自分で
やっていたのだが、或る日の事八百屋へ人参を買いに行ったらしい。買い物の前にはいつも会話の本を繰って
欲しい物の日本名を憶えて行くのだがおぼつかない日本語の事である、店先で車を止め小僧の足元にある人参を
指差して、ニンジン下さいと言うべき所を「ソノニンゲンクダサーイ」とやったらしい。小僧さんは訳が判らずキョトンと
している。奥から手をふきふき出て来たおかみさんがこれを聞いてびっくり仰天したのだという。
そう言ってさもおかしそうに身体をよじって笑うのである。聞いている僕は話よりも彼女の身振り手振りの見事さに
あっけにとられて見ていたものであった。ところがそれ位はまだ良い方で友達の誰とかはバスの中で
「ここで下ろしてください」と言うつもりで「KOKODEKOROSHITEKUDASAI」とわめいたとか。
やがて九月に入り夏休みも終ったが、元来が病院の正式な職員ではなく、夫の暇なときだけ人手の少なかった病院を
手伝うパートタイムだったらしいフィルダーさんは、夫の仕事もあり日本語学校にも通わねばならず、週に三日しか
病院の仕事が出来ない事になった。そしていつの間にか当分の間フィルダーさんが行けない日には僕が代わりに行って
仕事をしなければならない事になっていた。肝機能や腎機能もやらねばならず相当忙しい仕事だが、退屈な講義を
聴いているよりは臨床検査をし時々珍しい患者さんを診せてもらったり、手術の見学をしていたりする方がどれだけ
興味深かったか知れないので喜んで講義を抜け出し自転車を走らせたものであった。それにフィルダーさんは
自分の非番の日にも良くやって来てたのでフィルダーさんと話の出来る楽しみもあった。
忙しく試験室で過ごしている内に当分の間というのがいつの間にか冬になりやがて春になってしまった。
しばらく春休みで休暇をもらった。四月になりそろそろ京都に帰って又病院に出かけなければならないな、と思っている頃
院長から手紙が届いた。タイプで四、五行に打った簡単な文面だった。
「かねてから東京にて養成中の試験室技師三名が帰ってきたので、もはや貴君のヘルプは必要でなくなった。
我々は貴君のヘルプを感謝している。神様のお恵が豊かにあるように。」
という文面を読んで必要な事は全部書いてあるが、余分な事は何一つ書いてなくいかにもアメリカ人らしいと思い、
それと共になんだか大事な勤め先をくびになったような気がするのを禁じ得なかった。
院長の手紙と相前後してフィルダーさんからきれいな日本語の楷書で綴った長い手紙をもらった。
ところどころ間違いがあるのは誰にも教わらずに書いたに違いない。夫妻が京都を離れる事になった事を知らせ、
短い間だったが試験室で一緒に仕事をする事が出来て楽しかったと結んであった。いつだったか伊豆の旅先から
手紙をもらった事がある。便箋に僅か半分程だが、帰って来てから、あの手紙を書くのに三時間もかかったと言い
「バカデスネェー」と自分の日本語の下手な事を笑っていたことがあったが、彼女の喋る日本語を知っている自分には
忙しい中からわざわざ日本語で手紙を書いてくれたフィルダーさんの行為が身にしみて嬉しかった。
そしてフィルダーさんのいない試験室ならもう行っても仕方のないような気がした。
フィルダーさんはもういない。今頃は広い故国のどこかで御主人と一緒にドライブを楽しんでいる事だろう。
それと共に自分もいつの間にか卒業の春を迎えるようになった。フィルダーさんが聞いたら
「まあお前が」と手を拡げて驚くことだろうと思う。
フィルダーさんと、この病院からは、ずいぶん多くの事を学んだような気がするのである。
(医学科 4年生の時)
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