白川内科 SHIRAKAWA-NAIKA 静岡県浜松市將監町の内科 海外渡航者向けの予防接種 予防注射
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現代に生きれば120歳。日本史上最も傑作した大政治家の生涯と、長寿の秘密に迫る。
その秘訣は食事と運動。常用した薬にある。
  最近の簡易生命表によると、日本人の平均余命はまたまた伸びて、男性 78 歳、女性 85 歳となった。
名実ともに世界最高の長寿を誇っている。特に女性の世界一は1985年からである。しかし、古くは江戸時代、
明治、大正、昭和の戦前まで、戦後も昭和22年までは、人生50年であった。正確に言うと、大正10〜14年 男42.06、
女43.20、昭和10〜11年 男46.92、女49.43、昭和22年 男50.06、女53.96才。ちなみに縄文時代20才、弥生時代25才。
江戸時代は、成人した人の死亡年齢がほぼ50歳という意味で、信長が出陣の前にいつも謡った幸若舞の一節、
「人間五十年、化転の内にくらぶれば、夢幻の如くなり・・・。」だったのである。

 長生きしたかったら、親を選んで生まれて来い、と言われていることは医学の常識であるにせよ、内科医として、
長寿の条件は何かといつも考えさせられている。家康が、当時としては抜群の長寿、75才の生涯を全うし、
しかも死の直前まで鷹狩りをする元気があり、ぼけの症状はなかったからである。家康と戦った戦国の武将達の寿命は、
上杉謙信49才、武田信玄53才であり、秀吉は63才だが、10年近く前からぼけてきて、二度にわたる朝鮮出兵などを
しているから実際には53,4才の寿命だったと思われる。家康だけが平均寿命の1.5倍生き抜いたのである。

 徳川家康は岡崎城主松平広忠の長子として天文11年(1542)に生まれた。母は刈谷城主水野忠政の娘、於大。
幼名は竹千代。その後今川義元の人質時代14才の時、義元に一字を与えられて元服し元信、
その後独力で三河一ヶ国を平定した武勇の人、祖父清康にあやかって元康、義元の死後、家康に改めた。

 家康が決して長寿の家庭に生まれたのではなかったことは、父広忠の死が24才、祖父清康が25才。
しかし、二人はいずれも部下の侍、広忠は側近の岩松八弥に、清康は家臣阿部弥七郎に刺殺されているのだが。
母は於大の方(伝通院)75才、祖母お富の方(華陽院)53才。祖先、特に母方の祖先はいくら調べてもなかなか
分からないので、次に子孫をみると、長男信康21才、次男秀康(結城)34才、三男二代将軍秀忠54才、四男忠吉28才、
五男信吉21才、六男忠輝92才、七男松千代6才、八男仙千代1才、九男義直(尾張家の祖)51才、十男頼宣(紀伊家の祖)
70才、末子頼房(水戸家の祖)59才。男子11名女子5名計16名の子供がいるが、自害した信康を除く男子の平均年齢は
41.7才。三代将軍家光48才以下15代将軍まですべて家康の血がつながっているが、この平均が49.8歳。
決して長寿の家系とは言えない。

 家康は6才の時、今川義元の人質となった。岡崎から駿府に送られる途中、浜松の10キロほど西の海岸、
塩見坂に小船で上陸、待ち伏せしていた信長の配下、田原城主戸田康光に横取りされ、信長の父織田信秀の居城
安祥城に引き渡された。康光は褒美として、信秀から永楽銭500貫文をもらったのだった。
後年、わしは6才の時銭500文でうられたのだとこぼしたと言われる。

 人を見抜くことが抜群だった信長は、竹千代を一目見てその非凡さを見抜き、この6才の三河の小わっぱに木剣、
馬術、水練を教えたのである。また自分がついていた師、近在の和尚に書物を講じさせたのである。

 8才の時、織田と今川の講和が成り、当時今川に捕らえられていた信長の兄信広と竹千代が人質交換となって、
竹千代はまた今川義元の許に送られることになった。

 駿府でも今川の人質として同様な毎日だったと想像される。駿府では今川義元が私淑していた、
臨済寺の和尚雪斉について教育を受けたことが知られている。

 この19才までの人質時代は家康の寿命にとって三つの意義を持っている。
一つは幼少の頃から撃剣、水練、馬術など十分な運動をしていたことである。

 第二は、人質の身であるから、「クサイ飯」とまではいかなくても、他の大名・城主の子供達と比較して、
決して贅沢な食事は許されなかったと思われる。長じて城主となってからも、一汁一菜を旨としていた。

 最大の長寿の要因は、当時の交通の要衝であり、京の都と並んで繁栄した駿府にあって、不遇の身ながら、
天下の形勢をいつも見聞きして育ち、今川義元や上杉謙信、武田信玄、織田信長及びその幕僚の面々羽柴秀吉、
柴田勝家、前田利家といった群雄よりも長生きしなければ、決して自分の世の中にはならない。この戦国の乱世のもと、
天下をとるためにはこれらの群雄を打ち破り、生き延びていかなければならないことを悟ったと思われることである。

 この長生きをしようというmotivationを持つことが、最も大切なことだと私は考える。
家康は幼少の頃より、健康長寿への強烈なmotivを持っていたということである。

 桶狭間での信長の奇襲によって今川義元が討たれると、すぐさま信長と同盟し、岡崎に帰国した。
岡崎城主となってからは、戦の合間にはいつも鷹狩りをした。鷹を追って、野越え、山越え、川を渡り、谷を越えて走る。
まさに、現代のトライアスロンである。

 浜松城主となっても、この鷹狩りは続けられたばかりでなく、駿府城でも死ぬ間際まで続けられた。
死の原因の一つとなった献上された大鯛を榧の油で天ぷらにし、にんにく味噌をつけて食べたという事件も、
駿府から伊豆への鷹狩りの途中の出来事である。

 家康は、鷹狩りを終生の趣味としたが、鷹狩りについて、次のように述べている。「およそ鷹狩りというものは、
遊楽や娯楽のためだけにあるのではない。遠く郊外に出かけるから、下民の苦労や士風を察することは
言うまでもないが、何よりも筋骨をはたらかせて手足を剄捷ならしめ、風寒や炎暑をもいとわず奔走することにより、
おのずから病などの起こるのを防ぐものだ。そのうえ、朝早起きするので、宿食を消化し、朝飯の味もひとしお旨くなる。
また、夜中となれば、1日の疲れによって快く熟睡できるから、自然に閨房からも遠ざかる。これこそ第一の摂生である。」
『中泉古老物語』

 三番目が薬である。家康はよく書を読み、万巻の書を集めたが、多くの薬物、薬学の本を読み、
自分で処方調剤したことが知られている。部下の侍大将が病気になると、自分で薬を調合して遣わしたのである。
部下は与えられた薬を押し頂いて飲み、病本復のあかつきには、御大将の馬前の盾にならんと誓ったのである。
人の心をつかむのが誠にうまい人であった。

 家康が独自に調合し、常用した薬として知られているのは、万病丹(円)と銀液丹である。
前者の主成分は附子、トリカブトであり、後者は水銀と砒素が主成分であったものと考えられる。

 万病丹はその頃流行した寸白(回虫症、条虫症、つつがむし病等の寄生虫症)に薬効があったものと思われる。
慶弔18年(1613)72才の時、鷹狩りの途中で発症した時には、自らの調剤で治している。『駿府記』。

 銀液丹は、私の考えでは、間者や家中の者による毒殺を防ぐため、砒素、亜砒酸の極く微量を常用し耐性を高め、
不意の毒殺に備えたのではなかったかと考えている。父も祖父も、身内の侍によって謀殺された家康としては
当然のことではなかろうか。

 家康はこれらの毒薬の微量を服用することが(極量を超えて摂取することを警戒し丸薬とした)、
身体の強壮剤としては勿論、強精剤として薬効があることを見出し、ひそかに常用したものと考えている。
家康は自らの研究で現代のバイアグラを見出したのである。

 家康は男子11名女子5名の子女を得たが、正室は長男信康 長女亀姫を産んだ築山御前と、
その死後、秀吉に「家康はやもめで淋しかろう。わしの妹をくれてやる」と押し付けられた朝日姫のみで、
信康 亀姫以後の14名はすべて14名の側室達が産んでいる。

 家康は、権門の出である義元の姪の築山御前によほどこりたのか、その側室にみられる女性観は現実的、実利的で
身分や出目にはこだわらなかった。その後の秀吉が、武斗派の押す北政所と文官派の押す淀君の対立、葛藤となり、
豊臣家の崩壊を早めたことを思うと、閨閥による煩わしさと弊害をよく知っていたに違いない。

 側室のうち代表的な数名のプロフィールを記してみる。

 お万の方(初代)。築山御前の侍女(お松)。知立の神宮の娘。築山御前から取り上げて側室とした。
築山御前が嫉妬し、折檻するので今川家の船奉行で、後に宇布見(現雄踏町)の庄屋をしていた中村源左衛門正吉に
預けられ、次男於義丸、後の結城秀康を産んだ。

 お愛の方。西郷某という下級武士の妻だったが、夫が武田との戦いで討死。
その後、奥女中から側室になった。三男二代将軍秀忠の母。

 お茶阿の方。遠州金谷の宿、鋳物師八蔵の後妻。その美貌に迷った土地の代官が夫を殺し、妾にしようとしたが
決してなびかず、鷹狩りの途中、路上家康に直訴した。家康は代官を死罪にし、侍女とし、側室にとりあげた。
美人で聡明、家康に終生愛された。大奥に重きをなすばかりでなく、家康の意を介して豊臣家への使者に立ったりもした。
六男忠輝の母。

 お万の方(ニ代目)。十男頼宣、十一男頼房の母。お勝の方。慶長12年 五女 市姫を産んだ。
頼房は家康62歳の時、市姫は66才の時の子であるから、その盛んなこと驚くべきである。

 尚、家康の病歴は詳細に研究されていて、44才の時、背中に癰。重臣本多重次の進言により糟屋長閑の診察を受け、
できものの上に拳大の灸をすえた結果、大量の膿血が流れ出て治癒。59才の時虐瘧疾(マラリア)。66才の時淋病。
京都より専門医の佐藤三室を招き本復。72才の時再び淋病。実際は梅毒との混合感染であったと思われる。
自分で調剤した水銀丹を盛んに服用し続けた。筆頭侍医の片山宗哲がしきりに諫めたが聞き入れることなく、
後日このため信州高島に遠流されることになる始末であった。

 家康の最後は75才の時、元和二年(1616)正月21日、田中(現藤枝市郊外)の狩り場で鷹狩り中、献上された大鯛を
天ぷらにし、夕食に食べたのが原因で食傷となった。腹中に「塊」があったので、寸白の虫と自分で診断し、八味丸や
万病丹で治療していたが、本復せず、4月17日多くの大名達に見守られ、最期を迎えた。死に水はお茶阿の方がとった。

 死因は富士川遊氏はじめ一般には「胃癌」とされているが、私は、梅毒による胃あるいは肝臓など
腹部臓器の護膜腫ではなかったかと思う。

 日本人の寿命は大巾に伸びた。しかし百才老人は1万人で、しかもその殆どは特別養護老人ホームに入っている。
一方、アメリカでは、日本よりはるかに平均寿命が短いのに、百才老人は5万人もいて、その中にはクイーンエリザベスに
乗って世界一周をしたり、97才で現役の飛込み選手がいたりするのである。

 ちなみに、人口10万人当りの百才老人は、日本8.0人(98年)に対して、世界第1位アメリカ20.2人(95年)、
2位フランス9.5人(95年)、3位スウェーデン9.0人(96年)。日本国内の健康補助食品サプリメントの売上げは
2700億円になったところだが、アメリカの売上げは日本の10倍の2兆7000億円で、人口の比率を考えても日本の5倍の
消費量である。私の考えでは、アメリカに100才老人が多いのは、普通の平均寿命の大多数のアメリカ人のほかに、
若い頃から年をとってもスポーツセンターなどでトレイニングをし、マルティビタミンや、亜鉛や鉄や、食物繊維などを
主とするサプリメントを継続的に服用している一群の人々がいるためかと私は考えている。

 家康の場合、長寿の条件は、まず長生きをしようという強烈なmotivationを持ち、
(1)若い時から運動を心がけ、(2)比較的粗食を取り、(3)常備薬を自分で調合して、
滋養強壮の持薬を常用したことである。


 
 
 
 
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