白川内科 SHIRAKAWA-NAIKA 静岡県浜松市將監町の内科 海外渡航者向けの予防接種 予防注射
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 北先生が亡くなられた翌朝、五時頃でしたでしょうか、ご長男の徹君からの電話で知って驚きました。
信じられませんでした。というのは亡くなられる半年程前に、仁川のお宅にお伺いし、ずいぶん長い間お話した
ばかりだったからです。勿論お声はかすれていました。しかし、とてもお元気でした。

 「週に三回はゴルフをする。」「去年は一二〇回した。」(一五〇回とお聞きしたかもしれません。)ハンデは15とかで、
それを維持するための様々な方法をお聞きし、先生より早く始めた私が未だにハンデ22で、それも何とか下げたいと
思っている現実から考えると、お年が七十歳をすぎているのに、そのお元気さは全く驚異的でした。

 先生は、島田市民病院の後、海星病院で名声を博され、阪神間きっての名医という評判でした。やさしい奥様と、
立派に成人され、皆様が医師となった四人の息子さん夫婦、多くのお孫さんに囲まれ、お元気で幸せな北先生だと
思って浜松に帰ったばかりだったからです。

 北先生に最初にお目にかかったのは今から三十六年も前、昭和三十三年の今頃だったでしょうか。
内科第一講座に入局し医局に居ると、立派な恰幅の先生が入って来られ、当時講師だった三好先生や市田先生と、
お話をされていました。大きなお声が印象的だったので、あとであの方は誰ですか、と医局の先輩に聞くと、
北旭先生といって東海道島田の宿に島田市民病院という立派な病院を作った、臨床の大変よく出来る
先生だということでした。

 間もなく八月末に、病棟主任の三好先生が十本のくじを持って来られ、私達十人の新入局生は、九月から赴任する
研修病院のくじを引きました。私には大阪の北野病院が当たりました。北先生の臨床家としての名声を
聞いておりましたので、私は島田市民病院のくじをひいた親友の蔵本君に言いました。

 「おい、くじを代わらんか、俺は島田に行きたい。」「お前は北野に行きたいと言ってたやないか。」

 くじを交換し乍ら私は言いました。

 「これで俺とお前の運命は変わったなぁ。」その通りになりました。蔵本君は北野で勉強し、持ち前の学究肌が実って、
間もなく内野先生に続いて広島大に行かれ、教授となり大成されました。私は臨床一筋に進み、高島病院の医長から、
新設された浜松労災の内科部長となり、十年程して開業。現在県や市医師会の役員をし乍ら、卒後研修に
力を入れております。つい最近まで、全国の国立大学でただ一人、開業医ですが、内科の非常勤講師をしておりました。

 そんなわけで、私は病院も見に行かず、北先生が院長をしているというだけで、くじを代わってまで島田に
行きたかったのです。先生の臨床家としての手腕に惹かれ、先生の人となり、生き様に惚れたからです。

 島田に赴任したのは昭和四十三年の九月早々。いろいろの御苦労の末、市民病院として新築され、
丁度引越しが終わった頃だったと思います。大井川流域にただ一つの総合病院でしたから、
それは活気のある、症例の豊富な病院でした。

 先生の御性格は、泰然自若。御多忙を極めたのに、いつも悠々としていらっしゃいました。気質はまことに豪放磊落、
明るいお人柄でした。”くじの件”を御存知で、「白川、よく来た。歓迎会をしちゃる。」とおっしゃって、私達は内科の
看護婦さん達と、大井川の河原に連れて行かれました。落ち鮎のシーズンでした。上流に網を仕掛け、用意させておいた
ブルドーザーを二、三回川に入れ、下流から追い上げて沢山の鮎をとりました。流木を集めて河原で盛大な焚き火をし、
鮎を肴に酒盛りでした。これ以後、私の人生でこんな豪勢な歓迎会をしてもらった記憶はありません。

 出来た当時の市民病院は確か百六十床ほどだったと思いますが、ベッドの三分の一は、
一人内科医員の私が主治医でした。(といってもその半分は結核病棟の患者でしたが。)

 外科が石黒医長と、同級生の鈴木敞君(現山口大学教授)の二人だけだったので、しばらくの間私が麻酔医を
引き受けました。何しろ麻酔学の講義を二、三回聞いただけで、ぶっつけ本番の実技でしたので、最初の数例は
苦労しました。気管に入らず、食堂に入ってしまいプカプカやっているところへ運悪く北先生が入って来られ、
「おー、白川、胃切の時はマーゲンを麻酔するのか。」と散々に冷やかされたことが忘れられません。

 毎週月曜の午後が、院長回診でした。大抵二人きりで、先生のお伴をして、時々は古田医長と三人で、内科全患者を
診て回りました。先生の診断は、豊富な臨床経験に裏打ちされた、極めて直感的なもので、いつも大変教えられ、
感銘を受けました。ある時、「不明熱」ということで新患が入って来ました、先生は部屋に入るなり、その患者が枕を
はずして寝ているのをみて、「おい、白川、髄膜炎じゃないか。ルンバールやってみい。」腰椎穿刺をしてみますと、
細胞数と蛋白量が少し増えているだけでしたが、翌日から典型的な症状を呈しました。また赤痢が流行している頃、
血便が続くという事で赤痢として隔離病棟に入って来た患者の便をちらっと見て、「直腸癌じゃないか。」
指診してみますと正しく直腸癌でした。またある時は、白い小便が出るという中川根村の患者を入院させましたが、
先生はフィラリアじゃないかと診断されました。当時来ていた三人のインターンと一緒に夜中に血液を採って調べると、
先生の御診断通りミクロフィラリアが見つかりました。九州・沖縄にだけある、稀な病気がこんなところにあるとは
実に意外でした。その後先生はフィラリア症研究班を作り、病院のスタッフ十名近くで中川根村を一ヶ月近くに亘って
調査しました。その結果は私が学会に報告し、医事新報に「大井川流域におけるフィラリア症」と題して発表してあります。

 「僻地の診療は、その地域の基幹病院の使命である。」と先生はおっしゃって、無医地区の伊久美に、
毎週一回市民病院から医師を派遣され、毎年中川根村の巡回診療を実施されました。
今から実に四十年も前の事ですから、その卓見たるや誠に素晴らしいものだったと思います。

 先生は豪放磊落の反面、実に細心緻密な神経の持ち主でした。

 ある時郷里で開業している父が、東京の帰りに島田に寄ったことがありました。先生は大変歓迎して下さり、
多忙な中から時間を割いて、病院の車に同乗して、父を御前崎から三保の松原までご案内して下さいました。
翌年父母が一緒に来た時もそうでした。後年何人かの部下を持つ身になり、医員の両親が訪ねて来るような機会も
何回かありましたが、ただの一度もそんな事をしていなかった自分自身に、今、気がついて、先生のお心遣いに驚き、
感謝するばかりです。

 当時の病院は往診を引き受けていました。その年の大晦日がたまたま当直でした。インフルエンザが流行し、
三十数軒ほど往診して、くたびれ果てて、元日の朝寝ていましたら、先生から電話がかかりました。雑煮を作って
待っているから食べに来るようにということです。寝かしておいてもらった方が有難いのにと思い乍らも、
顔を洗ってお伺いすると、先生御夫妻と、坊ちゃん四人が、雑煮の椀を前にきちんと座って、
待っていて下さったことがあり感激しました。

 この御子息四人兄弟が大変なやんちゃで、お宅へお伺いすると、障子は破れるどころか、桟もなく、襖さえ
大きく破れて、そこから出入りして遊ぶ有様でした。お子様達の教育は奥さま任せで、放任主義のように見られた方も
いらっしゃいますが、私はそうではなかったと思います。

 ある日、回診が終わったあと、院長室に呼ばれました。
「おい白川、徹がのう、付属中学を受けるんじゃ。お前家庭教師をやってくれんか。」早速夕食後にお伺いし、
当時小学六年生の徹君に算数・国語を教えました。大変素直で出来の良い少年でした。
家庭教師なんか要らないんじゃないでしょうか。そう申し上げ、多分二、三回お伺いしただけで終わったと思います。

 間もなく先生は神戸へ引き上げられ、私も京都へ帰りましたが、お世話になった者十数人で毎年「北先生を囲む会」を
やっていました。その頃ある日先生から電話がかかり、徹君が京大医学部を受けるので、お前のところへしばらく
置いてくれんか、ということでした。当時私は新婚早々で、下鴨に二階建の家を借りて住んでいましたので
喜んでお預かりしました。

 入試が終わった日に、徹君に吉田で売っている模範解答を買ってこさせて、二人で採点してみますと、
医学部の合格最低点を大幅に上回る素晴らしい成績でした。喜んで、早速北先生に電話しました。

「先生、おめでとうございます。徹君合格してますよ。」

「馬鹿者、お前何言うとるんじゃ。今日終わったばかりじゃないかぁ。」

 私は叱られましたが、お声は笑っている声でした。堅吉君の時には、やはり電話がかかって来て、
「受験の心得を書いて激励してやってくれんか。」とおっしゃるので、何枚か手紙を書いたことでした。
そんな風で、お子様一人一人に細かく気を配っていらしたと思います。

 先生には、医学・医療のことばかりでなく、人生について、人間について、医師としての生き方について、
ずい分多くのことを教えて頂いたように思います。天国に召された今、かつて診察した多くの患者達に囲まれ
賑やかにお過ごしなのでしょうか。

 どうか、北 旭先生、天国で奥さまはじめ四人の御子息とその御家族を、それと共に、私達後輩一人一人をも、
見守り、お護り、御導き下さいますよう…お祈り致します。

(一九九四・四・二十四 一周忌 宝塚市 宝仙花にて)

 
 
 
 
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